死刑は償いの一つの形 [死刑賛成!!]
死刑反対論者の皆さんへ
http://muimusaku.iza.ne.jp/blog/entry/2781723/ より(抜粋)
あるブログに、死刑を求める遺族の感情は「国家に隠れた新たな殺人に荷担したという事実は死ぬまで消えず、それからの人生を凍らせるものでしかない」とありました。
どうしてそう断定できるのかと思います。そこにはそう断定するにあたっての論理的な説明はありませんでした。遺族になったことがあってそう言うのならわからなくもありませんが、たとえそういう経験があったとしても、それはその人個人の経験であって、他の遺族も同じだとは言えないはずです。
取り返しのつかないことをした者には取り返しのつかない形での償いがあっていいと私は思います。死刑はまさにそのためにあるのだと思います。
2012-09-09 00:29
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コメント(4)
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冤罪をどうするかがありますね。
検察みてると結構でっちあげしてるようなので。
ひどい話です。
by haya (2012-09-09 00:37)
冤罪があってはならないことは誰もが否定しないでしょう。死刑につながる冤罪だけでなく、痴漢事件であってもそれは取り返しのつかないことになります。
冤罪の可能性があることを理由とする死刑反対論は、間違った一般化のいい例です。冤罪の可能性が全くないケースもあります。そういうケースについては死刑はやむを得ないでしょう。
by クレーマー&クレーマー (2012-09-10 09:27)
冤罪を生まないようにすること。これは、手続きの問題です。仮に死刑が確定したとしても、それでも冤罪の可能性があるのなら(冤罪を主張しているのなら)刑の執行をしなければいいだけの話です。
制度として死刑をどうするかということと冤罪は別問題です。
by クレーマー&クレーマー (2012-09-16 12:37)
>死刑につながる冤罪だけでなく、
>痴漢事件であっても
>それは取り返しのつかないことになります。
痴漢事件の冤罪も取り返しが付かないので、
死刑につながる冤罪だけを防ぐ手段は採らない
というのであれば
これは二者択一強制論法の良い例です。
冤罪そのものを防ぐ手段を採るか
死刑につながる冤罪だけを防ぐ手段を採るか
強制的に二択にしているのです。
例えば、シートベルトは事故を減らすわけではないのに
人はシートベルトをすることには反対しません。
普通の事故でもある意味取り返しは付きませんが、
死亡事故だけでも防ぐことが出来るのであれば
その手段には意味があるからです。
また、別にシートベルトをしたからと言って、
事故自体を防ぐ手段が採れなくなるわけでは
ないからです。
冤罪も同じです。
痴漢事件の冤罪でも取り返しは付かないですが、
冤罪で死刑になることだけでも防げるなら
その手段には意味があるのです。
そして、別に死刑廃止をしたからと言って、
冤罪自体を防ぐ手段が採れなくなるわけでは
ありません。
冤罪の可能性があることを理由とする死刑反対論は、
予防の手段ではなく、
起こってしまった場合に備えて対策を講じるもので
事後的なものです。
事故の可能性があることを理由とする
シートベルトの着用義務と同じで
ごく普通の論理展開です。
>冤罪の可能性があることを理由とする死刑反対論は、
>間違った一般化のいい例です。
>冤罪の可能性が全くないケースもあります。
>そういうケースについては死刑はやむを得ないでしょう。
そんなケースはありません。
どんな証拠があってもそれが捏造されたものである可能性は
否定できません。
>冤罪を生まないようにすること。
>これは、手続きの問題です。
事故を起こさないようにすること。
これは、運転技術の問題です。
しかし、事故とシートベルトとは
別問題ではありません。
>仮に死刑が確定したとしても、
>それでも冤罪の可能性があるのなら
>(冤罪を主張しているのなら)
>刑の執行をしなければいいだけの話です。
いかなるケースであっても
どんな証拠があっても
それが捏造されたものである可能性は
否定できません。
故に、常に冤罪の可能性があります。
そして、常に刑の執行をしないのであれば、
死刑廃止と結果は同じです。
死刑が冤罪の問題だけだとするなら、
つまり、金銭的問題や司法権の侵害の問題
また死刑は過剰報復という問題点を除けば
それで良いです。
但し、それでは
全く死刑制度に意味は
ありません。
無期懲役よりあまくなってしまい、
制裁の意味合いも全く無くなってしまい、
まさに税金の垂れ流しです。
>制度として死刑をどうするかということと冤罪は
>別問題です。
全く別問題ではありません。
by 死刑反対派 (2013-05-01 18:21)