死刑は廃止してはならない  [死刑賛成!!]

本村洋の復讐論と安田好弘の怠業 - 山口県光市母子殺害事件

http://critic2.exblog.jp/3251270/  より(抜粋)  

     

死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。  

     

私はテレビの前で感動し、またそれを23歳の若さで、あれほどの悲しみと不幸と混乱の中で、毅然と整然と説得的な論理に纏めて言葉にできた本村洋に強い尊敬の念を抱いた。そして彼の復讐論に感銘を受け、彼の意志と信念を強く支持する気分になった。心を揺り動かされた。


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死刑反対派

>死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、
>罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、
>許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、
>そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、
>その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、
>その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、
>初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、
>人の命の尊厳を社会が知る、
>そこに死刑の意義があるのだ、
>とそのように言っていた。

私は本村氏の言葉を聴いて、強い死刑反対論者になりました。

犯人の不幸は蜜の味です。
それはどうしようもない人間の性だと思います。
いたたまれない気持ちになります。
しかし、それを正当化することはできません。
「犯人の不幸を望んている」という自分の心理状態を
否定することはできないはずです。
「制裁」や「等価」や「復讐」や「仇討ち」
という名でイメージを良くしても同じです。
その不幸追求権を法で必要以上に保護することは
法の趣旨に反するのです。

世の中にはいろんな恨みがあり、
それぞれ相手の出来得る限りの不幸を
望んでしまうものです。

例えば、過失致死は死刑にはなりません。
しかし、「わざとじゃない」なんて
被害者には関係ありません。
被害者はある日突然なんの罪も無いのに
夢も希望も全ての人権を奪われてしまうのです。
被害者遺族は心の奥底では当然加害者の死刑を望みます。
被害者は二度と帰って来ないのだから
本村氏の言葉通りなら死刑で等価なのです。

しかし、世の中は
「わざとじゃなかったのなら仕方ない」
「無罪にするわけではない」と言って
死刑はやり過ぎとします。

被害者には関係無いような事件の背景も
すべて目を反らさずに考慮して
加害者の人権を最低限は保護するはずなのです。

ここで過失事件の被害者やその遺族は
死刑を望んでいないと言う人は
そもそも被害者の気持ちなど考えたことの
無い人だと私は思います。

被害者は犯人の可能な限りの不幸を
望んでしまうものなのです。

ところが、故意の殺人であっても
犯罪という悪業の裏には
想像を絶する苦悩と病理が
渦巻いています。

だからと言って許せないのは当然ですが
その苦悩や病理を考慮しないのであれば、
どんな加害者であっても人の命を奪えば
人権は無いことになります。

決して犯人を許して
無罪にしようと言うわけではありません。
当然苦悩や病理があっても重い罰は免れません。
ただ、責任を負える分だけ
加害者に不幸を背負って貰うだけです。
その責任は、およそ全ての事件の背景に
必ず苦悩や病理がある以上、
死刑では等価にはならないのです。

死刑は過剰報復なのです。

>私はテレビの前で感動し、
>またそれを23歳の若さで、
>あれほどの悲しみと不幸と混乱の中で、
>毅然と整然と説得的な論理に纏めて言葉にできた本村洋に
>強い尊敬の念を抱いた。

私は本村氏の言葉を聴いて、強い死刑反対論者になりました。

その言葉の裏にある苦悩以上に、
その混乱と異常性を感じ取り、
論理性の欠如に気付いたからです。

混乱による異常性は仕方ないと思います。
しかし、異常である事実は変わりません。

被害者は犯人の可能な限りの不幸を望んでしまうものです。
それはどうしようもない人間の性であり、
望むこと自体は悪いことではないと思います。

しかし、世の中にはいろんな恨みがあり、
例え過失であっても犯人の不幸を望んでしまうことは
否定してはいけません。

仮に凶悪事件の場合だけ死刑を望むのが当然であり、
死刑は正当であるとするならば、
過失事件の場合に死刑を望むことは
悪いことになってしまいます。

死刑を、犯人の可能な限りの不幸を望むことは
悪いことではありません。

犯行がわざとであろうがなかろうが、
犯人の人生にどんな苦悩があろうが、
犯人に被害者と同一の不幸を与えたいのは
当然です。

しかし、それは死刑にすべきことの根拠には
ならないのです。
それは死刑が悪業に対して等価であることには
ならないのです。

死刑は過剰報復なのです。

by 死刑反対派 (2013-05-01 14:33) 

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